「  」

通りなれた道。どれを見てもちがう緑色の木。なんかいつもよりキレイに見える。葉っぱの枚数なんて数えない。ガードレールの端っこが黒く汚れていて、誰かがぶつかったのかなぁとか考える。走っているおじさん。すごい汗とふくらはぎの筋肉。目的地もなくダラダラ走る。太ったお兄さんがポケットに手を突っ込んで歩いてる。もし、いま世界からポケットがなくなったら、あの手はどうなるんだろう。たぶん、この世にポケットがなくても人間は大して困らない。太陽が元気でちょっと汗をかく。前を走る車にのっている犬がこっちを見る。今日だけで何台の車がこの目に映ったのか。車の燃料は命で、人間は人間を殺すために今日も車に乗ってどこかに行って。懐かしい道から知らない道。知らない道が知ってる道につながった時の安心感。道はちゃんとつながってる。走って止まって走って。黒い煙と川と橋。道路道路パトカーパトカー。パチンコ屋。なんか食べたい。そのうち人は車に運ばれる。ドナドナ。輸血されるくらいなら死んだほうがマシって人に満面の笑みで輸血する人はどんな人なの。大人と子どもと。時速40キロの景色が流れる。何もかも数えない。なんか今日は緑がキレイ。明日はあるのか。命の代償は。風か空気か緑の葉っぱか。緑黄緑黄緑緑。赤い信号。先頭ぜったいフライング。国道直進右左。ダラダラだらだら。何も知らない。

見えかた

電車に乗っているときは、いつも決まって入り口すぐのところに立つ。そして、乗っている人を観察したり外を眺めたりしている。割合としては、7対3くらいで外を見ていることのほうが多いと思う。今日も外を見ていたんだけど、途中にある川になにか鳥が泳いでいるのが見えた。太陽の光があたってキラキラしていて、すごくきれいだなと思った。でも、近づいていくと、鳥だと思っていたそれは、誰かが捨てたビニール袋だった。どう考えても、ただのゴミだ。だけど、遠くから見ると本当にきれいだった。川にゴミがあるのはあまり気持ちのいいものじゃないし、どう見えようとゴミであることは変わらない。ただ、間違いなくその一瞬、自分にとってそのビニール袋にはゴミ以上の価値があった。この感覚はすごく大事にしないといけないものだと思う。なんでも同じ方向からしか見ないとどうしても偏ってしまうし、世の中のおもしろい部分を見逃してしまう気がする。少なくとも、今日は誰かの捨てたゴミのせいで、美しい景色に出会ってしまった。

子ども

おとなって無意識に子どもを下に見ている。おとなと子どもの一番の差は経験で、場合によってはその経験がマイナスに働くこともある。それに、成長のはやさとか純粋に夢中になれるところを考慮すると、すべてにおいて子どもが下だとは言い切れない。みんながみんなそうでもないけれど、すごい子どもがいたってぜんぜん不思議じゃない。でも、おとなはすべてにおいて子どもを下に見ている。おとなとして、子どもを守ったり育てる義務はあるけれど、時にはひとりの人間として対等に接することも必要なんじゃないのかなと思う。最近、しっかりしていない親が多いように感じることがよくあるから、不安になることが多い。逆に、しっかりしている子どもを見かけることもあるけれど。ぜんぶ自分の基準でしかないけれど、おとながもっとちゃんとしないと。おとなはもっと子どもから学ぶべきだと思う。

かけ声

卓球の選手は、ポイントをとったとき、だいたい大きい声を出す。シャーッとかサーッとか、人によってちがうけれど、誰もがなにかしらの声を出す。テレビでしか見たことがないから、試合会場がどんな環境なのか、どんな選手がいるのかは知らない。ただ、自分が知っているなかでは、ポイントをとって無言の選手は見たことがない。声の大小もあるけれど、なにかしら声は出す。それが、たまに見ていてうっとおしい。だから、ずっと思っていたんだけど、無言の選手はいないのだろうか。なんというか、イチローみたいにたんたんとプレイするつよい選手だっていてもいいのにと思う。卓球ファンでもないし、ごく稀にしかテレビでも見ないからまったく問題はないんだけれど。知らないだけでそういう人もいるのかなぁ。

好み

どれくらいの人がそうなのかはわからないけれど、その人が好きな色とその人に似合う色はちがうことが多いと思う。特別な根拠はない。ただ、そんな気がする。色だけでなく、形とかもそう。服とかめがねとかバイクとか髪とか、まぁいろいろと。それは、自分で思っている自分と、他人から見た自分がズレているということなのかなと思う。あと、似合うとわかっていたとしても、好きな色を選びたいという気持ちはどうしようもないものだ。髪型だって、似合うと言われても、自分がダサいと思う髪型になんかしたくないだろう。つまり、もし単純にまわりの人によく見られたいと思うのなら、好みなんか置いておいて、自分に似合うものを身につければいい。そうすれば、いつもの自分よりも魅力的に見える。ただ、そうやってまわりに合わせてものを選んでいると、自分のことがわからなくなるかもしれない。まわりに流されて自分を見失いやすくなるかもしれない。まわりに振り回されないように、自分の好みくらいはブレずにしっかり持っておいたほうがいい、と自分は思う。

順番

俳句は語順を変えるだけで印象がガラッと変わる。それは、たぶん俳句だけじゃなくて普段の話しことばでも、メールやLINEのことばでも同じだと思う。最後にイヤな印象のことばをつかえば、どうしてもイヤな印象が残ってしまう。内容は大事だけれど、その順番にも気をつかわないと自分が思っているとおりに伝わらないことになる。そういうことは、たぶん珍しいことじゃない。少なからず、毎日誰かと関わるなかで起こっているものだと思う。もっというと、ことばに限ったことでもない。先にこっちをやっておけばよかったなとか、先にあいつを行かせればよかったなとか、そんなことはよくある。うまくいかなかった時に、内容ばかりを気にしてしまうけれど、もしかしたら違う順番でやっていたらうまくいっていたかもしれない。そういうふうに考えてみることも必要なことだと思う。

展開

ふとした時に思い出すことは、ひとりでいた時のことよりも誰かといた時のことのほうが多い。その時のじぶんが言ったことや誰かが言ったこと、笑い声なんかが鮮明に思い出される。ひとりの時は動きが少なく、あまり展開しない。例えば、つまづいてコケたとして、何も言わないかせいぜい痛いとぼそっとつぶやく程度だと思う。笑って何かを言ってくる人もいなければ、じぶんだって笑わない。ただコケただけの記憶になる。その時、友人がいっしょだと、みんな手を叩いて笑うだろう。何をしているんだと突っ込まれて、それにじぶんは何かを言い返す。もしかしたら、そのタイミングで別のひとりがコケたりするかもしれない。そうなったら、もう全員爆笑すると思う。ひとりでは起こり得ないことが、誰かといると起こるかもしれない。そういう出来事ほど鮮明に覚えているものだし、ふと思い出すことが多い。だから何ということもないけれど、じぶんだけだと発展しないから、楽しいこともそれ以外も増えないんだなぁとただ思っただけでした。